あるがままを受け入れる②

はじめに

誰だって傷つくことがあるし、落ち込むこともあります。もし他人の感情に鈍感で何も感じないのであれば自分はサイコパスではないのか?と疑ったほうが良いかも知れません。

またマイナスな事は目をそむけたくなりがちですが、意外と直視してみれば大したことがないし、トラウマは人を強くさせてもくれます。

病院への入院

暴漢に遭い、警察に保護された後心のケアを受けるために精神科に入院した時、「もし辛いことがあっても病院があるから大丈夫だよ。」と入院していた方が言ってくれてそれは心強い言葉でした。

何故私が精神科に入らなければならないのか?受け入れることがはじめは出来ませんでした。

それでも保護入院できた時間は本当にかけがえのない時で、同じ患者さんたちはみんな優しかったです。人を思いやり、気遣い心配してくれる方ばかりで、友達がすぐに出来ましたし、私より年上の方ばかりでしたが、優しく穏やかでした。

暴漢の話に戻りますが、見たことが有る顔の人でした。夜9時頃歩いていたら暴行を受け車に乗せられ拉致されました。目や口から出血し誰か分からないほど殴られたので、顔はパンパンに腫れ上がりました。相手もやりすぎたと思っていたらしくその腫れが引いてから解放されましたが、暴行を受けた時の身体の傷は今も残っています。ストーカー行為が行き過ぎると殺されてしまう女性が居ますが、同じような目に遭いそうになり、勿論すぐには警察には行けなかったのですが、たまたま異変に気づいた警察官が保護してくれ、そのまま病院に連れて行ってもらい、入院できる病院へと紹介状を書いてもらえたので病院に入ることが出来ました。これはとてもラッキーな事だったし、私は本当についていたと思います。

勿論直ぐには警察にはその事実も言えなくて、かなり時間が経ってから警察に通報することは出来ましたが、その大変さというのは分かるし、逆にすぐに警察に通報し犯人逮捕に繋がったけれど、今も心の傷が癒えなくて苦しんでいるという記事をつい最近見たので、私のようなケースは稀かもしれません。

結構早い段階で、「諦めて、全てを受け入れる」というのが出来ていたので心の回復は早かったと思います。というのも入院が嫌で、病院に入ってすぐに逃げ出そうとしたので、檻の中みたいなところに入れられた事がありました。

そこってもう人権の無いような世界でアクリル板の仕切りにトイレがあってコンクリートになっていて布団が引いてあるだけでした。本当にあり得なくて、3日3晩織田信長が焼き尽くしたっていうような戦いがあったはずですが朝倉義景の一乗谷城ですね…。と同じくらいと言ったら、申し訳ないですが同じくらいの絶望をあの時感じていました。

ありえないこの扱いどうして被害者がこんなに苦しまなきゃいけないのかと、泣いて泣いて絶望して、それでねぇ両隣がぶっ飛んだ方々でしたので、さっさとここは出ようとも思いました。本当に笑いながら今書いてるので、ショック受けないでくださいね。

両隣の方々は自由な人たちで常に全裸で生活していたので保護室に入っていたんですが、時々私の部屋の前を全裸の男女が通るし、夜中には雄叫びが聞こえるので、絶対になにがなんでも最短でこの病院を退院しよう❢と心に誓いました。

多分人生で一番頑張ったんじゃないのかと言うくらいな勢いで退院するために努力しました。そして同じ患者さん達とのお話の時間は結構楽しかったです。

人間どうにでもなるから大丈夫ってその時は思えたし、案外人間の生命力は強くて、涙が出ないんじゃないかってくらい沢山泣いたし、過呼吸にもなったけど、あれから10年…。お薬に頼ることなく問題無く暮らせています。今が幸せならそれでいいし、自分のこともっと大事にしようと思っています。退院してすぐに断薬にも成功し、睡眠導入薬含めADHDのお薬も一切飲んでいないので今が一番幸せだと思っています。

知らないおじさんが助けてくれて人を信じられる心が育った話

海外に出て旅していた時間は自分を強くしてくれたし、全く知らない土地に深夜バスを降ろされた時はもう終わったと絶望したこともありましたが…笑 優しいおじさんが売店で水を買ってくれて渡してくれて…おじさんと一緒にいる間はおじさんのこと全く信じられなくて、宿まで探してくれて全部終わって1人になった時にやっと、あのおじさん本当にただの良い人だったんだ…って感動したのを覚えています。

コロンビアは悪いイメージしかなくて、行く気が無かったんですが旅先で出逢ったイスラエル人の女性弁護士と同じ家で暮らしていて、絶対行ったほうが良いと勧められ地図に行ったほうがいい場所を書いてもらいその手書きの地図頼りに旅に向かいました。今みたいにネットで宿を予約出来る時代でも無かったので凄く不安でした。

だけど人は凄く優しくて、知り合った人の知人の家などにホームスティさせてもらい、普段の暮らしが出来たのが凄く嬉しかったです。私の中での楽しいは現地に住む人と同じ暮らしをして、普通な生活をしてみることです。特別高いレストランに行くことでもなければ高いホテルに行くことでもなく庶民向けのレストランや八百屋さん、市場が大好きでした。

正直治安が悪すぎて、満足には買い物ができなかったけれど、ちょっと山に行けばそんな事も無縁な平和な世界が広がっていて、人の思い込みが如何にばかばかしいかということも実感した旅でした。

こうやって自分自身は荒治療じゃないけど人を信用していくというのを積んで行きました。

そして見ず知らずの知らない人たちに心を助けてもらい、その連続で今があります。

もし生きている中でなにかに躓いて、辛くなったことがあったとしても、精神的に弱い人っていうレッテルは貼ってほしく無いと思っています。誰しもがそうなる可能性があり、他人の感情に鈍感で気づかないのであればサイコパスのような気質のある人間だと思うし、大体の人たちは傷つくし、心痛めます。

コロンビアではシャーマンにも逢いに行きました。その中で色んな人と話をしたし、軍人さんも居ました。アメリカでも退役軍人の心の病は問題になっては居ますが、コロンビアでもそうでした。軍人として沢山人を殺してきて、自分は英雄として扱われてきたが晩年になって心が苦しくて辛くなってきた、自分がして来たことは間違っていたと呟いている人も居ました。

またネパールの山奥で出逢った別な軍人さんは戦争で両足を失い身の回りの世話を仲間にしてもらっていた人が居ました。軍人の中でも自ら最前線に立ち戦っていた元志願兵でした。普段は明るく元気ですが、時々気落ちして泣いている声が聞こえてきました。毎日神に祈り生きていることに感謝を続けていましたが、そうやって心を保っていたんだと思います。

今も世界中で様々な問題があり、人と人がぶつかり合い闘っている中で、多くの一般人は傷つき心を痛め、より良く生きたいと明日の未来を夢見ています。

もう一回、病院に戻ってその時の回想話

一方日本の病院に入院していた時を回想すると、病院の中は苛める人たちが居ない世界で、こんなにも幸せなんだと感じました。面会に来てくれた家族が差し入れのお菓子を持ってきてくれたら、そのお菓子をみんなに配って仲良く食べたり、困っている人が居れば助ける人が居るし、誰かを悪く言う人達は誰も居ないようなそんな世界でした。

ただ、自分が居たのは短期病棟だったので、長期病棟とは異なる存在だったのかも知れません。長期になると印象も変わってきます。お薬の長期服用の怖さを見たと言うか…感情のアップダウンが少なく平穏には生きているかも知れませんが、それは薬で抑圧された世界にも感じられました。入院していた先輩が長期病棟の見学に付き合ってくれて、あちらの世界を見せてくれました。

そして先生にはまだ心の傷は癒えていないからもっと長く入院したほうが良いと、長期病棟を勧められ、障害者手帳の交付も勧められました。ただ漠然とした不安というか、あそこに入ったら二度と出られない気持ちにもなったし、病院の利益の為に言われているような気がする不信感も持っていたので、すぐに退院し先生から言われたとおり、誰も知らないところに引っ越しすることを実行するべく、沖縄の離島に移住しました。

その時は投薬で先生と揉めていたことも1つ不信感が募る原因でした。統合失調症ではないのに、その病気のお薬を出されて糖尿病のリスクや体重が増えることを説明され、自分自身はその投薬に反対していたのですが、担当医の力が強く飲まなければいけなくなり…。

病院は薬を飲まなければ退院できませんので、大人しく薬を飲み続けましたが10キロも体重は増加しました。その後体質も変わり体重が落ちにくい身体になってしまったので、やはり投薬は気をつけなければならないと思いました。10キロ太った後に7キロのダイエットに成功しましたが、元々もっと体重が落ちやすい体質だったのが全然違う体質になり、これまでのダイエットも全然効かないので、今もあの投薬には怒ってはいます。

ただ、そのおかげで早くに断薬することは出来たし、薬の怖さも知ったので今は睡眠薬も飲んでいないし、ADHDのお薬も飲んでいない状態で9年以上が経過しました。

次回は最終回、沖縄移住の話をします。色んな人に出会い、色んな事がありました。心が健康でいるのには自然の近くに居ることは大事だなぁと思ったしなるべく刺激が少ないのも大事だなと感じています。そして規則正しい生活と適度な運動は言わずもがな大切ですし太陽の光を浴びることも同様にです。ただ人間には夜型の遺伝子なども見つかってきてはいるので誰しもが早寝早起きをしなくても良いのだし、仕事がそれで出来るのであれば自分のペースで生活していけたら充分ではないのかと思っています。