沖縄戦を振り返る。糸数アブチラガマ、アメリカ軍上陸地他。

昨日戦後75年を迎えました。

犠牲者、戦没者に追悼の意を表します。

人が人を殺し合う事は絶対に良くない事だし、生き残った人たちも心に深い痛みを伴う…分かっては居るけれどそれも人間が決めたことでもあり…多くの人々は、国が決定したことに従うのみです。

ここでは日本の良い悪いを言うつもりは無いですが、真の意味での自由や平等が、地球上に広がりますようにと祈っています。

また歴史は知れば知るほど、複雑な事情が見えてきます。物事は何でもそうですが、多角的な視点で見ることが大切だと思いました。

ひめゆり学徒隊と糸数アブチラガマ

昨年末、沖縄に滞在していた時アブチガラマという小さな鍾乳洞を見学に行きました。沖縄戦の際、防空壕に使われていたガマでした。ガマというのは道脇にあるくぼみや洞窟という意味です。

詳しくはこちらを載せておきます。→http://abuchiragama.com/(糸数アブチラガマHP)

このガマに、ひめゆり学徒隊も居ました。決戦で、負傷した兵士を運び入れ、軍の病院となっていましたが、アメリカ軍が南下してくるのに伴い学徒隊も更に南下します。その後ひめゆりの塔がある場所で多くの学徒隊が命を落としました。

ガマの中は鍾乳洞で、天井から水がぽたぽたと落ちてきますので、少し涼しく、湿り気があります。現在は多くの高校生等が修学旅行で訪れて居ます。どちらかといえば、若い頃よりも年齢を重ねてから見に行った方がよりよく理解できそうな場所にも感じました。勿論若い頃からの平和学習も大切だとは思います。

またアメリカ軍は、沖縄の読谷村から上陸しました。アメリカ軍の狙いは日本軍が使っていた飛行場だったと言います。(多分現在の嘉手納飛行場の辺りだと思います。)これはガマの中を案内してくださった、松永さんに教えていただきました。調べれば調べるほど沖縄戦はアメリカが緻密に計算して上陸してきたことがわかるそうです。

http://www.aki-1989.com/ml-land/s00004

浜具知ビーチからアメリカ軍の船がやってきて上陸しました。読谷村にありまして、現在は公園になっています。そこに現在もアメリカ軍基地もあります。

当時は迎え撃つ日本兵は居なく静まり返っていた上陸だったそうで(その頃には戦力が足りなく日本軍が弱体化していたそうです。)不気味で気持ち悪く、何かの作戦ではないのか?とアメリカ軍も怯えたという話は聞きました。

読谷村観光協会HP (参考資料)

浜具知ビーチの地図

ビーチはアメリカ軍基地のトリイステーションにも近く、アメリカ陸軍特殊部隊の「グリーンベレー」が駐留している場所でもあります。

ちょうどこの基地の隣辺りで生活していましたが、軍用地として土地を貸す家も多く、豪邸も多かった印象でした。本州では考えられないような大きな家が沢山並んでいますが、なんとも言えない気持ちになりました。この地域ではガマがありまして、1つは集団自決で沢山の人々が亡くなっていました。もう1つのガマでは英語が話せる住民が1人いまして、アメリカ軍が説得し、アメリカ軍の話を信用して抵抗しなかった為に全員助かった所もありました。

その時信じるか信じないかは難しいとは思います。現在でもイスラム国などに捕まった人々が捕虜になってしまったり、チベットでは強制不妊手術の話も有るくらいですから、判断は何時の時代も難しいなと感じました。

基地反対の活動家は県外から来られる方もいらっしゃるようですが、実際はそんなに人数は多くはない印象でした。沖縄県の中にはアメリカ軍施設が幾つも有りますので、そこで働いている沖縄の人たちも沢山居ます。

親戚や友だちを見渡せば1人くらいは基地で働いているかもしれませんから、なかなかそれに対して反対も言いにくいでしょうし、沖縄本島に居る間は米軍基地のそのような話を聞くことは無かったです。

辺野古の埋立地で、何度かデモをしている人々を見かけたりはしましたが、多くても10人程で、殆どは1〜3人程です。

南部のひめゆり学徒隊が亡くなった地である糸満市や北部などからの、反米軍基地のバスツアーも出ていて、日給が出るものもあります。南部も北部も今の所米軍基地が無く、基地の恩恵も殆ど無いからだと思われます。

沖縄本島の滞在は、北から南まであちこち転々と滞在しまして、感じたことでもありました。南部や北部の街中には、ツアー募集のポスターが張ってあり、日給も5000円程と書いてあったりしました。(2019年冬情報です)

本気で反基地活動をされている方もいらっしゃるかもしれませんが、戦後75年ですので、沖縄はアメリカ軍と共存共栄している感じでした。

現在のアメリカ軍の人々は、教育が徹底されていることと、ルールも厳しくなってきているのでマナーの良い方も多い印象でアメリカ人向けの不動産業者も有りますし、軍からのお金で家を借りられますので、多少高い家でも借りてくれるし、滞納なども無いので、アメリカ人に貸したいという業者も多かった印象でした。

これらの話は、沖縄戦とは違う事ですが、75年も経てば、沖縄にアメリカ軍が居るのが当たり前になってきている気がしますし、中国が尖閣諸島などへ領海侵犯なども度々繰り返していますので、もし仮にアメリカ軍が沖縄から出てしまったら、その後どうなるのだろう?と一抹の不安も覚えます。

自衛隊の空軍基地が久米島にもありますし、自衛隊基地が全く無いわけでは有りませんが、いつも有事の際を予想して軍基地は配備されていますので、地理的に日本の最南端である沖縄は何時の時代も、もしもの時には大変な地で有ることはこれからも違いはないので…何かと難しいなぁとも思いました。

沖縄戦の悲劇、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)

再び沖縄戦に戻りますが、最も聞いていて辛かったのは、沖縄の少年兵のお話でした。下記はウキペディアからの資料です。ひめゆり学徒隊の方が有名な気がしますが、少年兵達も大変つらい立場だったようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄血勤皇隊

14歳から16歳の沖縄に住んでいた少年兵の部隊です。半数が戦争で亡くなりました。

現代で言う自爆テロを任されていた子どもたちや、武器が不足しているので、何も持たないまま先頭に立ち、アメリカ軍に撃たれる役割を果たしていたり…。(切り込み攻撃の手法ではあるが、全くの武器を持たないのでただ撃たれるだけであった)とにかく肉弾として扱われていたので、これだけの死者数が出てしまったのであろうとは思います。

この少年兵の後に、武器をもった日本兵が居たと言います。少年兵を襲うアメリカ兵を見つけて、それを殺したりする訳ですが、沖縄の人々が日本を恨むのも当たり前のことだと思うし、そもそも沖縄戦は圧倒的に兵力も武器も何もかもが不足していた状況でした。沖縄県民の4人に1人が犠牲になった戦争です。

根深い問題が有るのは当たり前の事ですし、簡単には解決しないことだと改めて実感しました。

平和ガイドの活動:平和部会の理事、松永光雄さんのHP

今も遺骨収集をされている方がいらっしゃいます。松永光雄理事のHPも載せておきます。

沖縄のガマ・戦跡案内→https://www.heiwa-guide.net/heiwa-study.html

たまたまですが、松永さんにアブチラガマを案内して頂きお話を聞くことが出来ました。松永さんは思想の偏りも無く、ただ事実を教えて下さる方でしたので、大変興味深くまた別なガマも案内して頂きたいと思った方でした。

「自分は一匹狼だ」と話していた言葉が忘れられません。

戦争での辛い歴史が、政治利用されては欲しくないですし、野放しにされて忘れられても欲しくはないです。出来るだけ事実を、後世に語り継いで行くことがせめてもの亡くなった方々への慰霊になるのではないかと思っています。

1年〜2年に1度今も遺骨収集後に身元が判明する場合があるそうです。なかなか身元特定までは難しいそうですが、こうして地道に活動する方がいらっしゃるからだと思うと、本当に有り難いお話でした。

祖父のお話と、いつか行きたいシベリア

祖父は、満州でソ連兵の捕虜になり、シベリア抑留されました。

集団脱走後に、南下して長崎の佐世保港に着き、そこから地元の福島まで帰ってきました。当時は一文無しですから、日本に着いてからも北上するのは大変だったと思います。

母親と妹も、家に帰ってきた祖父を家族と判断することが出来ず、食べ物を分け与えようと食事を出したという話は何度も聞いた事がありました。終戦からどれくらい経ってからの帰還かは分かりませんが、日々物乞いをしたり、人に食べ物を分けてもらいながら生還したんだろうなと思うと、言葉に出来ない想いがあります。

そして命をつないでくださった方々には本当に感謝したいですし、今もこうして自分が生かされている事を実感します。

寡黙でしたので戦争の事は何一つ話しませんでした。戦争だけではなくて、普段も殆ど話しているのは聞いたことが有りません。

ただ、とても誠実で真面目、優しかったのは覚えています。

シベリア抑留後に帰還した方は、何も語らないような方が多いようです。

私の知っている祖父は穏やかな人でしたが、家ですいとん汁が出た時だけはとても不機嫌でした。見るのも嫌だったようで、とても嫌な思い出がこみ上げてきたんだろうなと思います。

勿論戦勝国も沢山の犠牲を出していますから、全ての亡くなった方々へ追悼の意を表したいです。

話を戻しますが、一度だけ新潟から訪ねてきて下さった方は一緒に集団脱走をし助かった方でした。当時脱走は、集団責任だったので、その責任を掛けられるであろう皆で逃げたそうです。集団脱走するきっかけになったのはその新潟に住んでいた男性が病気していたからだったそうです。

このままでは我々も死んでしまう、死ぬのならば逃げようと…。もしソ連兵に見つかったら皆殺しでした。

生きるか死ぬかは本当に分からないことだと改めて気付かされました。

死にそうなところを助けてもらいリアカーに乗せて最後まで世話してくれたと何十年と祖父を探していてやっと会えたそうです。だけどその人が病気しなければ、もしかしたら祖父は死んでいたかもしれないし、今思うとその人に生かされた命かもしれないのです。

私が小学校5年生位の時でした。

学校から帰ってくると、ちょうど白色の乗用車が我が家にやってきて、下りてきた初老の男性が興奮した面持ちだったのは良く分かりました。

外に出ていた祖父に近づき、「有難うございます。」と固い握手をし奥様も涙されていたので、子供心に強く印象が残っていました。

「貴方のおかげで、結婚し子どもにも恵まれ、孫もでき幸せに暮らせています。お礼を言いたくてずっと探してきました。」との内容でした。

祖父はずっと長い間、誰にもその事は告げずに心の中にしまっていました。ソ連兵の捕虜になり、赤色に染められたと、保守的な職場ではいじめにもあったことがあると祖母が話していましたが、祖父は何も言ってはいませんでした。

当時は生きて帰ってくることさえ恥と言われていた時代です。

満州国に居た時は、電電公社の社員として今の中学生の年齢で1人満州に渡ったと聞きます。(電電公社の学校を受験し入社しました。)早くに祖父は父親を亡くしていて、小学1年生の頃には父親不在でした。

家族の為に満州に渡り、学校に通いながらお給料も貰えるのでそのお金は家族へと仕送りをしていました。

第二次世界大戦では、モールス信号を勉強していたので通信部隊で活躍していたようです。

生きていてくれてよかったし、祖父の血がこの身体に流れていると思うと私は嬉しいし、強くなれそうです。

それに今はその訪ねてきてくれた方の親族にお会いしたい気持ちです。

きっともっとシベリア抑留の話は聞けそうな気がするし、シベリアにも行ってみたいです。

今またコロナで、世界中が大変な時ですが、アブチラガマで元日本兵の日比野さんは、人を助ける中で自分も体力が付き生き残ったと言っていたそうです。

https://www.amazon.co.jp/今なお、屍とともに生きる-沖縄戦嘉数高地から糸数アブチラガマへ-日比野-勝広/dp/4990248155/ref=sr_1_1?dchild=1&qid=1597580838&s=books&sr=1-1

上記の本は古本でしかないのか、もう出版していない本かもしれませんが、読んでみたい話です。私は、松永さんから日比野さんのお話を聞いただけですが、屍からの生還の話は、現代でも非常に重要な話だと思います。

同じように仏教のお釈迦様のお話は好きです。(私は無宗教ですが宗教の話は好きです。)お釈迦様が蓮の花の上に座っている絵などを目にしたことは有るとは思います。

蓮の花は泥の中で大きく成長します。綺麗な水では育たず、泥が必要なのです。そして泥の中をこの世に例え、どんな辛いことや苦しいことがあっても、美しく咲く花に人生を例えます。

この世に生まれるということは、楽だけでは有りません。親しい人が亡くなったり、子どもに先に先立たれたり、今も病気で苦しんでいる人が居るかも知れないし、満足に食事できない人たちも居る事を考えたら、自分だけが幸せというのも辛く悲しいことでもあります。

それでも生きて、幸せに、恩恵に感謝し、日々暮らすことが何よりも大切だと感じています。これからもより多くの人々が幸せに暮らせますように…。

心よりお祈り申し上げます。

まとまりのない文章ですが、忘れないようにと新しい記憶も含め整理してみました。