はじめましてめる(愛路)です。

簡単な自己紹介

私は将来に対して何か明確な希望や未来があった訳でもなく、なんとなくのんびり生きたいなと思っていたのですが、周囲の人に起業を進められ、19歳で個人事業主になり、25歳で会社を立ち上げました。

今は会社経営の相談やコンサル業務等を請け負って居ますが、ある時からそれらの仕事もつまらなくなってきてしまいました。

生活していけるだけの収入があり、セミリタイアも考え数年間働かずに生活してみたんですが、猛烈な不安感というか、海の見えるリゾート地で家を借りてただのんびりする生活は、理想的な生活だったのかもしれませんが、綺麗な海でプカプカと浮いている時間も、心の底から幸せを感じて居なくて、なんだか物足りないなという気持ちを抱えていたのも事実でした。つまらないというか、心の奥底から湧き上がる幸せを得られては居ませんでした。

人間は本当に無い物ねだりで、もうこれ以上ない幸せを手に入れたとしても、今度は不安になるという厄介な生き物のように感じてしまいます。

勢いで走っていたら、25歳までにはサラリーマンが一生かけて納める位の税金も日本に納めることが出来たので、そこらへんで燃え尽きたように自分の趣味ややりたいことに走るようになり、沖縄に移住したり、海外を40カ国近く旅をしたり…川の水で作ったスープを頂いたり、電気もガスも何もない、人里離れた離島へ行ってみたり、シャーマンや先住民に会い、アマゾン川を1週間近くかけて船渡りしたり、随分と冒険もしたなと思っています。

日本での生活は何不自由ない生活で、好きな車に乗って、ブランド品も買ってみたりもしたけど、全然私は興味が無いんだなと思いました。頑張ったら高い時計を買ってみようと、ご褒美に買った物も、今じゃ使う機会も失っていてもったいないなぁって感じているんですけど、それは若すぎて似合わなかっただけなのかもしれないって今になると思います。

最近は快適な旅が好きだし、お寺や神社、教会も好きですし、瞑想したり動物と遊んだりして、1人で居る時間が大切だったりします。

多分私が病気をしたり、震災で家を失ったり、震災の最中大切な家族が亡くなったり…そういう経験をして、生きているうちにやりたいことをやろうという気持ちになったのも確かです。

日本に居て仕事をしていれば、もっと多くの収入を得られたし、安定した生活が送れていると思うんですが、私は自分の目で見て感じて確かめたい気持ちが人一倍強くて、あちこち放浪する生活を続けています。

人はいつどうなるのかなんて分からないし、災害や天災は個人の力ではどうすることも出来ない事実でもあります。

振り返れば、沢山の困難が私には有りましたが、それでも生きていて、いざという時には守られている事を実感するので、私はとても運が良いなぁと感じています。

大学は発達心理学科に入学し、心理カウンセラーとしても15年以上働いてきています。

両親は公務員と銀行員で、祖父も、曽祖父も公務員、姉も公務員、親戚はお寺のお坊さんや議員さん、みんな日本では安定していると言われている職業や会社で働いているのに、私だけなんだか良くわからない生活をしているなと自分でも感じていまして、それが大きなコンプレックスでした。

だけどそんなものは、自分が勝手に作り上げているもので、気にしているのは自分だけなんだなって感じています。

海外に来て良かったことは、「職業は?とか結婚してるの?とか、何歳?」と聞かれることが本当に減りました。特に仲良しの人とは全くそんな話にはならなくて、お互いに好きな事や趣味の話で盛り上がっていたりします。

子供の頃から、クラスでは浮いた存在で馴染めなくて、いつも孤独を感じていました。

「友だちって何だろう?」と思う方だったし、自分の特質が故に、空気も読めなくて、ただなんとなくこんな感じが好まれるんだろうなという生き方をしてきたので、今の自分にとっては、この生活は幸せなんだろうなって思います。

空気は読まなくていいし、自分の生きたいように生きていいと今は思っているし、それで誰かを傷つける訳でもないんだから周りの評価は気にせずに、自分を信じてこれからも生きていこうと思っています。

ADHDと公表していること

なるべく人との摩擦を減らしたいことや、同じように発達障害を持っている方々と繋がりたいし、社会での共生も広げていけたらと思っています。お互いを理解出来れば、摩擦は少なくなるし、優位性を生かした生き方が出来たら幸せです。

遺伝や、環境ホルモンなども発達障害に影響していると言われてはいますが、現在は遺伝よりも環境要因が主な原因であると確定的になってきているそうです。

近年の増加はやはり環境汚染なども少なからず影響しているのではないかと感じていたりします。また食べ物もそうですが、公害や様々な害、人間の性ホルモンを害したり、影響を与えてしまう環境ホルモンの存在等、社会が複雑になるほど、子孫繁栄とはまた違う人間の生き方がそこには有り、そこから出た弊害や多様化に人が人を苦しめる結果にもなっているのは皮肉な事にも感じます。

ただ発達障害になっても、自分自身が悪い訳ではないので、己を責める必要は無いですし、同調圧力を求められたとしても世の中がまだ未熟な所もありますから、それを責める必要もないかとも居ます。

大切なのは理解し合う事で、今はまだそれが発達段階に有るのだと思います。自分が自分を理解し、愛してあげることは重要ですし、自分を受け止めることが出来れば人に何を言われても、己が有るため、気楽に生きることが出来ると思います。

そして出来るだけ特性を生かせる分野で生活出来たほうが幸せなのかもしれません。

『The etiology of developmental disorders (such as autism and ADHD): The interaction of genes and environment』(自閉症・ADHDなどの発達障害の原因としての環境科学物質) という論文も読んでいた所でした。

コロナ禍でのストレスを如何に解消するのか

今世界では様々な事が起きています。人々のストレスは弱者に向きます。差別された人種は声を揚げ抗議することで精神の昇華にあてているのかもしれないし、白人至上主義者は、自分が一番この世で偉いと思いながら、精神安定をはかっているのかもしれませんが、こんな時に一番大切なのは「助け合いの心」だと思っています。

人を助けることが心の安定に繋がるという研究結果もあるそうです。

コロンビアに行ったとき、世界の極悪麻薬王と言われていたパブロ・エスコバルの話は良く聞きました。

彼は人々の英雄でした。大きなスタジアムや美術館を作り、電車も通りました。また貧困を無くすために沢山の鶏を買い与え、道端でお金がなく佇んでいる少女を見かけると、大きな一軒家をその子の為に買い与えてあげたとか、色んな逸話を教えてもらいました。その一方で残酷なことも簡単に出来てしまう、人を簡単に殺してしまうのでも有名でした。3000人以上が殺され、殺す前に指を切り落とすとか、日本のヤクザみたいな感じもしますが…。

兎に角どんな極悪人でも、良心のようなもの?は有るんだなと思った次第でした。そしてそれが人の心を支え元気付けるのですから色々と皮肉にも感じた次第です。

「障害」か「個性」か?

欧米では秀でた能力を「神から与えられた才能」と考え、それを伸ばそうとしますが、日本では「まんべんなくできる」ことを重視する文化的土壌があるため、「できないこと」に目が行きがちです。だから彼らは生きづらさを感じるし、持っている能力も活かしづらい。 そもそも能力の凸凹は誰にもあるものです。その程度が激しく、本人や周囲が対応困難になると発達障害とされますが、障害なのかそうでないのかは相対的な部分があり、できない部分が目立つと障害、秀でた部分が目立つと個性と呼ばれる。その違いは紙一重です。

出典:「障害」か「個性」か?発達障害を理解し、支える地域社会に

日本での発達障害の生きづらさは尋常ではないと思います。「まんべんなくできる」事を重視する社会では平均的に全てが出来ないと、怠け者扱いされてしまいます。

私が海外に出て楽だったことは、他者からの圧力が少なく同じようにすることを求められることも少なかったのは良かったと思います。みんなが足並みを揃える社会は疲れてしまうし、全く別な意見があったとしても、そんな考え方もあるよねと受け止め合える社会は理想だなと思います。勿論海外だからそれはないとは言えないし、同じようにすることを求めてくる方も居ましたし、それは正直疲れました。

「〇〇が当たり前」これはとても疲れます。「○○が出来て当たり前」等、出来る人も居るし出来ない人も居るのが当たり前です。何事も普通を疑うのは大事だと思います。

店員が無愛想だったり、携帯電話をいじっていたり、雑談していたり、時にはストレスに感じる時もありますが、彼らは自分の好きに働いていて、見ているとホッとします。例えばお店のレジのアルバイトは賃金的には低い方ですから、賃金分の働きしかしないのはとても合理的に感じますし、過剰なサービスも必要は無いと思います。

日本に居たら、会社はそこまで高い賃金を支払いはしませんが、働いていたら、良いサービスをするのが当たり前と、押し付けがましい過剰なサービスを要求しますし、客側も店員に対してはこれくらい出来て当たり前と要求し、時々バチバチとした現場に遭遇することはありました。ただそれはあまり海外では見ませんし、怒鳴る事が人として劣る行為とみなされているので、そんな恥ずかしい事をひけらかす人は少ないように感じます。

今一度自分の常識が、本当に正しいのかを考えることは大事だと思います。

ADHDや発達障害は社会のカナリア

ADHDや発達障害などは、鉱山でガス漏れを察知するカナリアに例えられる事があります。鉱山ではガス漏れを察知するのに鳥かごに入れたカナリアを連れていき作業していました。そこで鳥が死んでしまったら、作業を辞め外に出るそうです。カナリアは毒ガスで死んで、その危険を教えてくれました。

ADHDはじめ発達障害もこの世界での生き辛さ等を、教えてくれる存在になるかもしれません。

出来たら、発達障害の人々もこの世で楽しく生活して欲しいなとは思います。

例えば有名な画家や、発明家の多くは様々な特質を持っていて、生きているうちはなかなか評価してもらうことも出来ずに居ましたが、彼らが死んだ後も長い間功績を讃えられて、大切にされています。

オランダの画家で有名なゴッホも感性の強さから、精神病院に入院したり、耳を切り落としたりする奇行がありましたが、今思えば通常の人々が見えない聞こえないようなものを感じていたのかもしれないし、ゴッホにしたら当たり前の世界だったんだと思います。

トーマス・エジソンも小学校に入ると問題児で、入学を拒否されたと聞きます。

ただ、エジソンの母が子供を見守り、やりたいことをさせてあげた結果、沢山の開発に繋がり、この世の豊かさに結びついていると思います。

人と違うと言うことは、長所に成りうる社会ですから、大いに羽を広げて、今後も楽しく生きていきたいと思います。

Posted by 愛路(める)